ラインマーカーズ

 

大学のころ、とある宗教の勧誘の人とよく話す機会があった。当時住んでいたアパートにはオートロックもインターホンもなかったため、ドアを叩く音が来客の知らせで、扉を開けるともう目の前に人がいた。丁寧な話し方をする、眼鏡をかけた中年の女性だった。顔を思い出そうとしてみると、阿佐ヶ谷姉妹のどちらの顔も浮かんでくる。

何となく無下に扱いたくないのと、この人がどんなことを信じているのか単純に気になり、ひとまず話を聞いてみた。
彼女は、世界は神によりすべてデザインされている、生死を含むすべての事柄には理由があり、世界の整合性は神により保たれているのだ、というようなことを話した(と自分は理解した)。

わたしは、たしかにこの世界について考えたときに、あまりにも複雑なものがこんなにも奇跡的に噛み合って存在することなどに感動することはあるし、神のような超越的な存在について思いを馳せることもある、でも、死ぬことや生きることや存在それ自体やあらゆることにたいして、とくに意味も納得できるような理由づけも存在しないと思っており、そりゃ納得できた方が精神衛生上大変よいだろうけど、とても安心するだろうけど、その根本的な無意味さから逃げずに生きることは自分にとって大切なことなのだと伝えた。
彼女は、しばらく考え込んだあと、また勉強してからきますね、と言い帰っていった。

  

  

昔、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という映画を観た。この映画は、911で父親を亡くした子どもの話で、彼は非定型発達的な気質があり(映画では診断を受けつつその結果については明示されていなかった気がする)、とても聡明で厳密だった。

自分がこの映画を観たとき、この主人公の気質により、父の死の理不尽さが際立つことが印象的だった。なぜ父は死んだのか、なぜ死ななければならなかったのか、いくら考えたところで納得できる説明は見当たらない。厳密な彼が父の死と向き合おうとするとき、どうしようもない深淵を見つける。理由もなく、均衡もなく、意味もなく、ある出来事は起こりあるものは存在する。気づいたときには心底呆然とする。なんて拠りどころのない場所に投げ出されてしまっているのだろう。世界はまったく「正しく」なかった !

 

わたしは、自分たちが常にそんな底のない無意味に曝されてることをいつも忘れないようにしている。それは決して真っ暗な絶望ではない。むしろ、強い光ですべてが満たされたような、そんな白で、そんな諦めで、そんな絶望で、そんな祝福だ。

私たちは意味がなくとも生きていけるし、むしろ意味がなければ生きられない方がおかしい。人生にあるのは、意味ではなく味わいで、喜びだけでなく自分の痛みも苦しみも、味わいだから、私のものだから手放したくないと思う。
途方もない理不尽な世界で生きることを、生きる自分自身を、わたしは心から祝福し、ウケるな〜と思っている。

  

 

 

一週間後、ピンク、緑、黄色のマーカーが引かれたパンフレットを携え、彼女はまた会いにきた。あなたの問いに答える準備をしてきました、と笑うその人の瞳は、西陽に透けるときれいな茶色に見えた。