全体性と無限

原因はストレスですね何か思い当たることはありますかお仕事はどうですか、と言われると、様々なことが改めて頭に浮かび、結局、そうですねストレスですかないことはないけどどうですかね、とよくわからない返事をしてしまう。

 

私は、たとえば、誰かの尊厳を守らなくてもいいものとしている限り、自分自身を含むどの人の尊厳もまた条件付きで仮初めに尊重されているだけの存在となってしまうわけで、そういうことが心底きつい。
条件なんかつけずに誰のことも何のことも祝福してほしいし、ほしいというかそうでないとおかしいと思うし、神様を発見した人の気持ちがとてもわかるし、未発見だったら私が見つけていた。それは願いというか、誰かが生きようとするならば、そうでなければ論理が破綻してしまうから、そういう前提は必須というだけだ。

また、こんなこと誰の身にも起こらないでほしいと思うさまざまなことが既に起きている / 今も起こり続けているという事実だけで十分に致死量の絶望で、正直そうした現実と一体どう折り合いをつけることができるのか全くもってわからない。折り合いをつけるべきとは思っておらず、むしろ折り合いをつけずに抱え続けることこそが自分のできる限りの誠実な応答だと思ってはいるものの、まともに向き合ったら生活も生存もできないとも思う。どこまで何をしたら充足するなんてものはなく、どこまでもどこまでも尽きることなく応答は求められる。その声に対し自分が壊れない程度に応える、それ以降はそれとなく聞こえないふりをする。聞こえないふりをしても見えないふりをしても、あえてずらした焦点の外にはいくつものぼやけた深淵がちらつく。私は誠実に生きられているだろうかと、誠実には生きられないのだろうかと、常に諦念と絶望がぼんやり底を流れる。

子曰く、人は正気になってしまうと生きていくことができないので、生まれてから3分間だけ正気で、あとは全て気が狂っているらしい。