いっしょにふるえて下さい 
私が熱でふるえているとき 
私の熱を数字に変えたりしないで 
私の汗びっしょりの肌に 
あなたのひんやりと乾いた肌を下さい

 

分かろうとしないで下さい 
私がうわごとを言いつづけるとき 
意味なんか探さないで 
夜っぴて私のそばにいて下さい 
たとえ私があなたを突きとばしても 

 

私の痛みは私だけのもの 
あなたにわけてあげることはできません 
全世界が一本の鋭い錐でしかないとき 
せめて目をつむり耐えて下さい 
あなたも私の敵であるということに

 

あなたをまるごと私に下さい 
頭だけではいやです心だけでも 
あなたの背中に私を負って 
手さぐりでさまよってほしいのです 
よみのくにの泉のほとりを

 

 

20190102

ひとまず2019年まで生き延びたよ、と昔の自分に伝えたい。

意味のあることも意味のないこともたくさん味わいたい。ものごととちゃんと向き合いたい。そうしないと自殺することになるから。最近は死にたい気持ちが薄れてきたと思って喜んでいたら、ただ単に紛らわして過ごしていただけだった。何一つ変わっていなかった。考えるのはしんどいけど、考えないでいると取り返しがつかなくなる。いけるところまでがんばろう。生きている間はずっとこんなに苦しいんだろうか。生きるなら、苦しくても報われなくても悔いなく生きたいな。

ばあちゃんのこと

部屋を掃除していたら、じいちゃんばあちゃんからの短い手紙が出てきた。自分が大学生の頃、じいちゃんばあちゃんから定期的に食べ物などが送られてくるときには、こうした手紙が同封されていた。手紙はいつもじいちゃんがワープロで書いていた。

「爺ちゃんも,ばぁちゃんも元気。」

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じいちゃんは、ある程度心やもろもろの準備が整った状態で死んでいったけど、ばあちゃんは、本当に突然死んでしまった。死ぬときまでかなり元気だったし、持病もなかった。その日ばあちゃんは、朝起きて、いつも通りに朝ごはんの準備を始めて、おにぎりを握っている最中に倒れて、そのまま救急車で病院へ運ばれて、一時間ほどで死んでしまった。

その前日、ばあちゃんから私へ電話があった。疲れていたこともあり、ばあちゃんからの着信が鳴り終わるまで、ぼーっと画面を眺めていた。結局その日には折り返し連絡もせず、留守電を聞いたのは、翌日、ばあちゃんが死んだと知った日の夜だった。



ばあちゃんとの関係は、上手く表せないけど、少なくとも好かれているわけではなかったと思う。弟が誰よりも溺愛されていたことは確かで、遺産はすべて弟にあげたいと話していたこともあった(実際にはそうはならなかった)。また、ばあちゃんが亡くなったのはちょうど弟の大学受験の最中で、ぱらぱらと結果が出始めていた頃だった。その時点での結果はあまり芳しくなく、私やお兄ちゃんの大学よりもだいぶ偏差値の低いところにしか受かっていなかったが、ばあちゃんは周囲に弟が一番よい大学に受かったと伝えていた。

 

ばあちゃんに関わる、嫌な思い出がある。

まだ私が小学生だったころ、昼下がりにばあちゃんとふたりで部屋におり、ばあちゃんは洗濯物を畳んでいた。ある家族について「◯◯はあのとき死んでおけばよかったんだよね」と、何気ないトーンでばあちゃんが私に言った。突然のことで、私はひたすらに驚いて、腹立たしいやら意味がわからないやらで、クソババアお前が死ねばいいんだよと叫んで部屋を出て行った。こうした言葉を人にぶつけたのは、このとき以来ない。このことは家族の誰にも言えなかったし、これから言うつもりもない。

他にも、保育園のころ、これまたばあちゃんと自分がふたりで家にいるときに、自分の友だちの祖父母宅を指差して「あそこは人殺しの家だよ」とニヤニヤしながら言ってきた不穏な記憶がある。ニヤニヤと書いたが、ばあちゃんは普段から何やら笑ったような顔をしていたので、普段どおりの笑ったような顔をして、そんなことを話していた。あと、発熱して中学校を休んだときに電話をかけてきて長話を始めたため、熱があってしんどいから切るねと電話を切ったら、なんと伝えたのか知らないが、「ばあちゃんから聞いたぞ」とブチ切れた父に部屋の扉を蹴られまくった記憶がある。

まあ、ばあちゃんも人間だし、あのときには虫の居所が悪かったのかもしれないし、あれだけ一緒に過ごしたうちにあるいくつかの不穏な記憶など気にせずに他の思い出で包みあげてしまおうと考えたことも何度もあった。が、向けられた悪意に対してまだなすすべのない子どもをわざわざ選んでそうしたことをする卑劣さやいやらしさを感じてしまい、どうしても忘れてしまうことができないでいる。

 

「◯◯ちゃん、んふふ、ばあちゃんだよ」から始まった留守電には、わたしの帰省を楽しみにしている旨のメッセージが残されていた。ばあちゃんは、なにも面白くなくても笑いながら話をする。
その日はほかの兄弟には電話をかけておらず、電話がきたのは私だけだったらしい。そして、それがばあちゃんが最期にかけた電話になるそうだ。

正直、どうしてこんなときに限って、と思った。別に私のことを好きなわけでもなかったのに、よりによってこんなときに。

電話に出られなかったことを人に話すと、「好きだった / お世話になったばあちゃんの電話に出られなかった後悔」のカテゴリーに分類される話題だと思われたりする。でも、そのカテゴリーに収めるには、はみ出る部分が多すぎた。感情の収めどころがわからなかった。
それから何ヶ月も、ふとしたときにばあちゃんの目を思い出した。私はあの目つきが本当に嫌いだった。こちらを伺うような、見下すような、値踏みするような、縋るような、怯えたような目。
家族のだれも私が電話に出なかったことを責めなかったし、そのときのことについて詳しく聞くこともなかった。でも、ばあちゃんは責めるだろうと思った。きっとあの目で私を見てくるのだろうと思った。

 

ばあちゃんが死んでから、嫌な夢をみることが続いた。だれかに殺されたり、潜水したプールの底に死体がたくさん並べられていたり、学校で殺し合いが起きて友だちがどんどん殺されて、私は怖くなって人間として生きるのをやめてどうぶつドーナツになったり、そんな夢だった。夢にばあちゃんが出てくることもあった。それも嫌な夢だった。電話に出なくてごめんねとも思った。でもそれよりも、ああ夢にまで出てきてそんな目をして、本当に嫌なばあちゃんだと思った。

ばあちゃんが死んでから半年ほど経ったとき、私はまた夢のなかで殺されて、気付いたらじいちゃんばあちゃん家にいた。家の中は静かで、ばあちゃんは実際に死んだときと同じように、寝室で白い服を着て寝ていた。私はばあちゃんに泣きついて、ごめんね、ばあちゃんごめんねと謝った。ばあちゃんもすぐに目を覚まして、ふたりで抱き合って泣いた。

目が覚めたとき、私はばあちゃんに好きになってもらいたかったし、好きになりたかったと思った。

 

今までだって死にたい夜は何度もやってきたのに、どんな風に過ごせばいいのか今日もわからない。胸がつぶれるほど苦しくて痛い

もし親がもうこの世にいなかったら、今日くらいに死ねていた気がする

じいちゃんのこと

去年の夏、じいちゃんが死んだ。

一ヶ月くらい前からそろそろかもという雰囲気があり、二週間前には多分もうという感じで、可能ならば会いにくるように親から伝えられていた。

二週間前に会いに行ったとき、じいちゃんは老人ホームにいた。たしかに前よりも元気がなくなっていたし、裸眼かつ軽い痴呆のせいか、ずっと私を別の従姉妹と勘違いしていたけど、まだまだ口調もはっきりしているし、今までのようにここからまた盛り返してくれるんじゃないかと少し期待していた。

翌週会いに行ったとき、じいちゃんは病院にいた。じいちゃんはベッドで寝ていて、そのうち目を覚ました。私の名前を呼んで、「先週は間違えちゃったけど今はわかる」と笑いながらはっきり伝えてきたので、やっぱりまだ大丈夫なのではと思った。

でも少し経つと、本当に急に、起きているのに寝言のようにもごもご話すようになって、目も焦点が定まらなくなって、ご飯を食べようとしているのにスプーンは口に届いていなくて、会話もできなくなった。ものすごく眠いのに無理やり起きていようとしている人みたいだった。じいちゃんの口のまわりを拭きながら、「ここ数日はだいたいこの状態なんだよね」とお父さんが言った。

一週間後、じいちゃんは老衰で死んだ。寝たんだな、と思った。

 

 

両親が共働きだったため、小学校入学時から中学校卒業までは、いつも学校が終わったあと実家近くの父方のじいちゃんばあちゃん家に行き、晩ごはんを食べ、仕事を終えたお母さんが迎えに来るのを待っていた。そんな感じで、じいちゃんばあちゃんはたまに会う可愛がってくれる人たちではなくて、日常的に接点のある存在だった。

自分は何故か昔からじいちゃんばあちゃんのことがあまり好きになれないでいた。決して嫌いというわけではないし、苦手だと言いきるほどでもないけど、とりあえず、好きだとか好かれてるとか仲がよいとかが言える関係性ではなかったと思う。「好きになりたかったし、好きになってもらいたかった」というのが今はしっくりくる。

ばあちゃんとの関係は結局最後までしこりが残るようなかたちで終わってしまったけど、じいちゃんについては、じいちゃんがややボケだしてからかなり関係がよくなった。じいちゃんは歳を重ねるにつれロックになっていき、何やら社会規範等の抑圧から解放されていく感じがして、接していて純粋に面白かった。話をしていても急に別の話に飛んだり謎の前提が飛び出してきたりしたが、その流れに乗りながらじいちゃんと話をすることは、苦痛ではなくむしろ楽しかった。

 

ばあちゃんが亡くなってから、じいちゃんは急に身体が弱くなった。それまでは町内でチャリを乗りまわしていたのに、億劫になったのかあまり動かなくなり、筋肉が衰えほとんど歩けなくなった。そのため、家の中での移動は這ってするようになっていた。

その頃、じいちゃん家を昼過ぎに訪ねたことがあった。じいちゃんはベッドから這い出て迎えてくれた。疲れたから休んでいたと言い、「じいちゃん朝から忙しかったんだよ」と今まで自分が何をしていたかを話し始めた。
「まず朝起きたときにじいちゃんはうんちがしたくなって、どうしようかなと思ったけど、動くのが大変だし間に合わなかったからオムツにしたんだよ」 
「そのあと汚いからシャワーを浴びることにしたら、またシャワー途中にうんちがしたくなって、トイレまで行こうかなと思ってたんだけどもう諦めてじいちゃんうんち漏らすことにしたんだよ」
そのあと三度目の便意に襲われたときにはトイレに間に合った、という旨の話をして、最後に「その漏らしたうんちはそこに包んである」と私のすぐ隣に置いてある包みを指差し、稲川淳二の怪談みたいなオチで話を終わらせた。軽快な語り口だった。

一時間ほどの滞在時間はおもに排泄の話題に費やされ、生存の基本的なことにこれだけ時間や体力や諸々を割かないといけないとなるとなかなか厳しいものがあると思った。このときにはもうじいちゃんが老人ホームに入ることが決まっていたので、じいちゃんが少しでも生存ではなく生活をすることができるようになることを願っていた。

 

じいちゃんはホームに入ってから、また歩けるようになり、絵をたくさん描くようになった。私はじいちゃんの描く絵が好きで、お世辞とか「おじいちゃん偉いね〜」みたいなの抜きで、単純に面白く感じていたので、なるべく色々見せてもらうようにしていた。
ホームに飾ってある花、かつて高崎動物園で見たボス猿、何らかの大会で優勝した石川遼さん、高倉健さんの横顔、線路開通やこの前食べたお弁当…。じいちゃんの目に入って、興味を持ったものが描かれていた。絵を見ていると、じいちゃんがなにかに目を向けたり感じたりしながら暮らしていることを実感して、嬉しくなったり楽しくなったりした。
ホームの廊下にも、じいちゃんが描いた絵やときたま標語のようなものが飾ってあった。正月ごろには「お餅に愛を」という標語があった。職員さん曰く「お餅に注意」と書くように頼んだけど、じいちゃんがアレンジをしてこうなったとのことだった。

じいちゃんは滅茶苦茶な言動でよくまわりの人々を困らせていたようだったが、私はケラケラ笑う率直で突拍子もないじいちゃんといるのは面白く、帰省してじいちゃんに会うのが楽しみだった。

 

ある朝、じいちゃんが老衰で亡くなったと連絡があった。じいちゃんちへ向かうと、ベッドにじいちゃんが寝かされていた。ぱっと顔をみたとき、目と口が開いていて少しびっくりした(お父さん曰くだんだん開いてきてしまったとのこと)。何だか質感が明らかに生きているときと違っていて、蝋人形みたいだった。目はうっすらと白く濁っていて、顔つきもじいちゃんとは違っていた。ばあちゃんのときは、本当にただ眠っているみたいだったけど、じいちゃんは、明らかにもうここにはいないんだなと思った。じいちゃんはこんなもんではなかった。むちゃくちゃで愉快で傲慢で軽快で、とにかくこんなもんではなかった。

じいちゃんの死は、今まで体験した人の死の中で、一番穏やかに受け入れられたものだったと思う。単純に、今もとても寂しい。

 

 

思い出して苦しくなる場面がある。

じいちゃんが亡くなる一週間前、病院で会ったとき。じいちゃんは術後で、手術した場所がひどく痛みだしたため、痛み止めをもらおうと看護婦さんを呼んでいた。「痛い痛い、すみません、痛み止めをください、痛いです」と大きな声で言っていたのだけど、看護師さんは無視して通り過ぎてしまった。気づいていないのではなく、明らかに無視をしていた。もしかして、じいちゃんが何度も同じ要求をしたりしていて、痛み止めを適切な間隔を空けて服用していないためにあえて無視をしたのかなとも思ったが、お父さんが呼び止めて同様のことを伝えると痛み止めがもらえた。今服用しても特に問題ないとのことで、じいちゃんの要求は特に誤っていなかった。
また、じいちゃんは食事がひとりでは摂れないので、病院には食事の補助をお願いしており、その分のお金も払っていた。しかし、毎日訪問していた両親曰く、恐らく食事の補助はされておらず、そのため自分たちがいないときにはご飯を食べられていないのではとのことだった。まあ忙しそうだしね…とふたりは話していた。

医療現場の疲弊(本当に忙しそうだった)も、いちいち構っていられないことも、じいちゃんが無茶苦茶な言動をすることがあることも、決してその看護師さんが悪いわけではないことも、とてもよくわかる。ただただ、じいちゃんがまともな意思を持つ人間として扱われていないことが、そういう場所に置かれていることが、とてもつらいと思った。

じいちゃんは病院内や病院外を歩きたいと言ったが、それは病院では認められなかった。恐らくダメだと言われても無理やり歩こうとしたため、じいちゃんはベッドに拘束されていた。ホームにいた頃は歩けていたが、歩かなければ筋力も弱るため歩けなくなっていた。歩けなくなったじいちゃんは明らかに覇気がなくなっていた。
病院にいる間は歩けない。ここは歩き回ったりすることを目的とした場所ではなく、必要な箇所を手術して、治療することを目的としているから。この病院は生活するための場ではなくて、生存するための場だから。

担当医は検査結果を見て、前よりも数値がよくなっており、回復していると言っていた。じいちゃんは明らかに前よりも元気がないが、「回復している」らしい。このまま一日中ベッドに寝かされ続ければ、じいちゃんは絶対に死ぬ。すぐに死ぬ。それはきっとみんな分かっていて、それはもうどうしようもなかったことかもしれないけど

 

じいちゃんの最後の数年は「もうすぐかな」と「かなり調子が良くてウケる」の繰り返しだった。その過程で、今まで知らなかった面を知ったり、今までと異なる関わり方ができたりして、個人的にはかなり面白かった。じいちゃんと自分の間だけでなく、他の人との様子を見ていても、そういう新鮮さを感じた。
じいちゃんが元気になること、元気でいることは、何か未来や成長等を想起させるようなものではなくて、あくまでも終わりに向かっており、それをどれだけ引き伸ばせるか、みたいなものだった。そうしたことを感じるたびに、どう受け入れればいいのかわからず、すこし胸が苦しくなることもあった。

でも、そうであったとしても、じいちゃんが生きていること、じいちゃんが何かを感じたり考えたりすること、じいちゃんが他者と関わることは、決して価値がないものではないし、その存在は決して粗雑に扱われていいものではない。
そんなの当たり前だし、明言することもないはずであってほしいと思うけど、自分自身が忘れてしまいそうになったり、表明することを躊躇ってしまうことがあるから、ちゃんと書いておく。

 

 じいちゃんがかつて見たボス猿

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最近

最近、というかもう何年か前から、気持ちが毎日ジェットコースターのようで自分でもよくわからない。「まだ生きていける気がする」と思った1時間後に、何があったわけでもないのに次の朝が迎えられる気がしなくなる。1年後に自分が生きているかどうかもずっとわからない。いつからか、未来の話をされると言葉に詰まるようになってしまった。「私は、」のあとに、何も続かなくなってしまった、喉が閉まって目に涙がたまる。ぼんやりとでも浮かんでいた先のことが、本当に見えなくなってしまった。何年か後には、大根にでもなって面白い形で土から生えてきたりしているかもしれない。

この世界には、さまざまなうつくしいことも酷いこともあることを知っている。意味づけなんてできないような次元に曝されていることも知っている。他人や自分以外のあらゆるものが、私が意識していないときにも、私の見ていないときにも存在していること、その驚きとかどうしようもなさとかとてつもなさとか。そうしたことを感じるから、私はそのわけのわからない存在は尊いと思っているし、理由などなくその尊厳は守られるべきなのだと、守らなければいけないのだと信じている。何かの尊厳が害われていることを感じると、本当にたまらない気持ちになる。そういうことは多い。

「そういうことは多い」から、生きていることが苦痛なのか?
私はどうしてこんなに生きづらいんだろう。それが知りたい。何がつらいの、何が苦しくて切ないの、それが知りたい。

手に負えないものが多すぎると思う、ほとんどのものが手に負えない。生まれてきた時点で、私は何も承知していないし何も同意していないのに生まれていて、もう既に自分の存在自体手に負えない。これは私を生んだ親がどうこうとか、そんな話じゃない、親にも手に負えない、誰も手に負えない。
なんで私は個体なんだと思う。個体というあり方に耐えられない。私が個体である限り実現できないさまざまなこと。自我のない、ひとしく降り注ぐものになれたらと思う。バタイユやメルロポンティや西田幾多郎も他の多くの思想家も、個体ではない存在のあり方について話している(と私は解釈している)。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」私も本当にそれが不思議だ。

私の言う「手に負えない」は、「世の中の様々な事柄に対して問題解決のすべがない」という話ではない。社会のあらゆる問題に対して、無力さを感じることはそりゃ多いけど、ものすごく多いけど、決して「何も打つ手がない」わけではないと思う。多くのもっとも有効な手段は、地道で地味でささやかで我慢強さと粘り強さが必要なものだけど、そうしたすべが私たちには残されていると思う。私は生きている限りそうしたことを実践していこうと思っている。

私の感じる手に負えなさは、そうしたことよりはるかに根本的なもので、本当にどうしようもないもの、何もすべが残されていないものだと思う。そうしたことは受け入れるほかなく、腹を括るしかないのかもしれない。腹が括れないから生きているのがつらいのか?

個体として生まれてきてしまったことは、もう腹を括るしかないけど、それをやめることはできる。でもどうせそのときがいつかくるなら、今じゃなくても、わざわざ今自分でしなくてもいいんじゃないか。そう思うけど、でもたまらなく生きにくいんだもんなあ

私は自分が大切だと思ったことを大切にしながら生きたい。そうできないなら死んだ方がましだと思う。というより、死んだほうがその大切なものを大切にすることができる気がしている。あーだからなのかな

世の中で起きているすべてのことに関わることは決してできない。私の目に入るもののうち、焦点を結び、意味づけられ、そして手を伸ばせるものなんてあまりに少なく、でも、それさえ手に負えない。なんというか、誠実に向き合いたいと願うには、世界はあまりにも“ありすぎる”と思う。
日常生活を送るために、ほとんどのものに対する感受性を麻痺させている。そうしなければ生きていけないことを知っている。でも、そんな風に生きていくことに耐えられないときがある。
私は考えるべきことを考えて、向き合うべきものと向き合って生きているだろうか? 

 

この世界は本当は特に意味はなく、そういう意味で常に根本的な理不尽に曝されているわけだけど、私は別にそのことに対して絶望感はなく、むしろ楽しんでいると思う。私は自分が理不尽な状況に置かれるとめちゃくちゃウケてしまうので、毎日よく笑っている。 

マチュアの発明家になって、家にでかいボロボロのパラボラアンテナつけたいな

 

非行少年更生ボランティアのこと

大学にいた頃、所属していた団体へ人を集めるために書いた文章。今ならこういう書き方や表現はしないとか、補足したいことも多々あるけど、当時の自分はこう考えていたんだなというのが興味深い

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私は今、非行少年更生ボランティアをしているサークルに入っています。それについての宣伝とかその他のお話とか。
全て個人的な感想に過ぎませんので、悪しからず…。


私がこのサークルに入ったのは、「非行少年も本当はいい子」とかいう性善説を信じているからではなく、単純にこうした役割が必要だからという割と冷めた動機からだったりします。そもそもボランティアというもの自体あまり好きではないです。

このサークルに入る前まで、私は非行少年に対してかなり強い拒否感を抱いていました。
なぜ人の尊厳を踏みにじるようなことをするのか、そんな人社会から隔離されてしまえばいいくらいに思っていて。もし自分の大切な人が傷つけられたらと思うと、本当にどうしようもないほどの嫌悪感が湧いてきました。非行少年は私にとって排除したい人種でしかありませんでした。

でも実際問題、私が拒絶しようがなんであろうが、非行を起こした人は社会にいます。どこかで一定期間更生された後、ほとんどの人は社会に戻ってくるわけです。
それならば、現実的に排除はできませんし、拒絶というのもあまり建設的な態度ではないです。
もし誰もが彼らを拒絶をすれば、彼らの更生を望むことはできません。それは彼らのためでないというより、再犯リスク等を考えれば何より私たち自身のためにならない。

そんな感じで、自分個人の意見がどうこうというより、社会的な役割の必要性を動機として私はサークルに入りました。


私が思うに、世の中で一般的に言われる「悪い人」とは、たいていの場合、より適切に表現すれば「想像力のない人」か「弱い人」です。
想像力については、自分の行為が一体誰にどのような影響を及ぼすのか、そこに思いが馳せられなければその行為を思い留まるのは難しいということが言えると思います。
非行少年はしばしば更生の中で「社会の一員として生きるようになりなさい」と言われます。ですが、「社会」とはひどく漠然としていて捉え難いものです。「君たちは社会に迷惑をかけた」と言われても、なかなか実感は湧きません。
そんな漠然とした、それでいて彼らを責立てる「社会」というものの中に、私たちの顔が浮かぶようになってくれたら、少しでも「社会」に対して敵意でなく想像力を働かせることができるようになってくれたら、と思いつつ活動に参加しています。

弱さについては、自分の中でも漠然としていて説明しづらいのですが、たとえそこに想像力が及んでいたとしても、正しいと思うことを実行する力のないこと、でしょうか…。
思うに、弱い人はその分攻撃的になりがちです。少年の中には、割と「社会」に傷つけられたように思っている人もいて、その分「社会」側の私たちに対して警戒心を抱いていることもあります。
その「傷つけられた」という感覚が正当なものであるかは置いておいて、その感覚があるのだということは否定しようがないことです。「そもそもお前が悪いからそんな風に考えるのはおかしい」等と言って、あるものをないと否定してしまうことはできません。もし否定するとするならば、感覚自体ではなく、その感覚に至るプロセスを否定するべきだと思っていて。
なので、「『社会』は必ずしもあなたたちを敵視していない、否定しようとも傷つけようともしていない、だからそんな風に攻撃的になる必要はない」と彼らに伝わるよう意識して活動しています。

地道で目立たない活動ではありますが、はじめは話しかけてもこちらを向いてくれなかった子が、数時間後には目を見て頷いてくれるようになったり、自分のことをぽつぽつと話してくれたりすると、この活動には意味があるのだと強く感じます。


この活動に参加し、私自身、人やものに対して想像力を働かせることが僅かながらできるようになってきました。少年に対する気持ちも、嫌悪や拒絶とはまた別のものになりました。
活動終了後、たまに調査官さんから少年の背景についてお話をきくことがあります。きつい背景を持つ子は割といます。(だからといって罪を許すべきだとは思いません、それとこれとは分けて考えるべき問題なので)
常に他人にどんな背景があるかを把握することはできません。私の理解するその人というのは、私の枠組みにはめて理解したそれでしかなく、知りもしない部分が本当にたくさんあります。慣れ親しんだ友人や恋人、家族、また自分自身であってもそうだと思います。
自分には見えていない部分がその人にあるのだと思って人に接すると、相手のどんな行動に対しても、まず「どんなことがあってこの人の今の行動につながったのだろう」と思えるようになります。
例えば、自分からぶつかってきて舌打ちをしてきた人がいたとして、ああ分かり合えない人種だなと思うのでなく、この人は今ものすごく余裕のない状況に置かれているのかもしれない、家族の誰かが危篤で病院に向かっているところかもしれない、体調がひどく悪いのかもしれないし、小さいころからそのように育てられてきたのかもしれない(そうだとしたら割と生きていてしんどい場面が多そうだな)、とか…。
ここでの想像力というのは現実から離れたものを指すのではなく、極めて現実的なものだと思います。現実に即せば即すほど、自分に見えている部分がどれほど少ないかを知り、断定を避けざるをえなくなったり、態度として謙虚にならざるをえなかったりします。


肝心の活動なのですが、私が取り仕切っているものは、家庭裁判所の協力の下、少年と1時間ほど……の清掃をして、その後1時間ほど話し合いをする、という感じのものです。
今年度の活動日は……です。
その他に活動はたくさんありますし、活動頻度も自由、知識も経験もない方でも全く問題ないので、興味を少しでもお持ちになったらぜひぜひお声掛けください。


正直人手が足りず自分もあまり余裕がなく割と本気でやめてしまいたいとか思うのですが、活動自体は好きなのでやめられません…はあ。
このような状況ですが、無理やり仕事を押し付けたりは絶対にしません。興味を持ってくれた方で、少し雑用をしてもこの活動が存続するメリットの方が強いと思う人がいれば、運営のお手伝いしてくれたらとてもとても助かります。
いなかったらいなかったで、それは致し方ないことだと思うので、存続しなければいいのだと思います。人のための団体から、団体のための人になってはいけません。

私の気持ちが持つ限り、なるべく多くの人に、なるべく低いハードルで、更生に関わる機会をもってもらえたらと思っています。どんな動機でもいいし、一回限りの気持ちでいいので、ぜひぜひ声をかけてください。


ながながながくなってしまいました…最後まで読んでくれた奇特な方がもしいたら、飴をあげたい気分です。うわあん