非行少年更生ボランティアのこと

大学にいた頃、所属していた団体へ人を集めるために書いた文章。今ならこういう書き方や表現はしないとか、補足したいことも多々あるけど、当時の自分はこう考えていたんだなというのが興味深い

________________________________

 

私は今、非行少年更生ボランティアをしているサークルに入っています。それについての宣伝とかその他のお話とか。
全て個人的な感想に過ぎませんので、悪しからず…。


私がこのサークルに入ったのは、「非行少年も本当はいい子」とかいう性善説を信じているからではなく、単純にこうした役割が必要だからという割と冷めた動機からだったりします。そもそもボランティアというもの自体あまり好きではないです。

このサークルに入る前まで、私は非行少年に対してかなり強い拒否感を抱いていました。
なぜ人の尊厳を踏みにじるようなことをするのか、そんな人社会から隔離されてしまえばいいくらいに思っていて。もし自分の大切な人が傷つけられたらと思うと、本当にどうしようもないほどの嫌悪感が湧いてきました。非行少年は私にとって排除したい人種でしかありませんでした。

でも実際問題、私が拒絶しようがなんであろうが、非行を起こした人は社会にいます。どこかで一定期間更生された後、ほとんどの人は社会に戻ってくるわけです。
それならば、現実的に排除はできませんし、拒絶というのもあまり建設的な態度ではないです。
もし誰もが彼らを拒絶をすれば、彼らの更生を望むことはできません。それは彼らのためでないというより、再犯リスク等を考えれば何より私たち自身のためにならない。

そんな感じで、自分個人の意見がどうこうというより、社会的な役割の必要性を動機として私はサークルに入りました。


私が思うに、世の中で一般的に言われる「悪い人」とは、たいていの場合、より適切に表現すれば「想像力のない人」か「弱い人」です。
想像力については、自分の行為が一体誰にどのような影響を及ぼすのか、そこに思いが馳せられなければその行為を思い留まるのは難しいということが言えると思います。
非行少年はしばしば更生の中で「社会の一員として生きるようになりなさい」と言われます。ですが、「社会」とはひどく漠然としていて捉え難いものです。「君たちは社会に迷惑をかけた」と言われても、なかなか実感は湧きません。
そんな漠然とした、それでいて彼らを責立てる「社会」というものの中に、私たちの顔が浮かぶようになってくれたら、少しでも「社会」に対して敵意でなく想像力を働かせることができるようになってくれたら、と思いつつ活動に参加しています。

弱さについては、自分の中でも漠然としていて説明しづらいのですが、たとえそこに想像力が及んでいたとしても、正しいと思うことを実行する力のないこと、でしょうか…。
思うに、弱い人はその分攻撃的になりがちです。少年の中には、割と「社会」に傷つけられたように思っている人もいて、その分「社会」側の私たちに対して警戒心を抱いていることもあります。
その「傷つけられた」という感覚が正当なものであるかは置いておいて、その感覚があるのだということは否定しようがないことです。「そもそもお前が悪いからそんな風に考えるのはおかしい」等と言って、あるものをないと否定してしまうことはできません。もし否定するとするならば、感覚自体ではなく、その感覚に至るプロセスを否定するべきだと思っていて。
なので、「『社会』は必ずしもあなたたちを敵視していない、否定しようとも傷つけようともしていない、だからそんな風に攻撃的になる必要はない」と彼らに伝わるよう意識して活動しています。

地道で目立たない活動ではありますが、はじめは話しかけてもこちらを向いてくれなかった子が、数時間後には目を見て頷いてくれるようになったり、自分のことをぽつぽつと話してくれたりすると、この活動には意味があるのだと強く感じます。


この活動に参加し、私自身、人やものに対して想像力を働かせることが僅かながらできるようになってきました。少年に対する気持ちも、嫌悪や拒絶とはまた別のものになりました。
活動終了後、たまに調査官さんから少年の背景についてお話をきくことがあります。きつい背景を持つ子は割といます。(だからといって罪を許すべきだとは思いません、それとこれとは分けて考えるべき問題なので)
常に他人にどんな背景があるかを把握することはできません。私の理解するその人というのは、私の枠組みにはめて理解したそれでしかなく、知りもしない部分が本当にたくさんあります。慣れ親しんだ友人や恋人、家族、また自分自身であってもそうだと思います。
自分には見えていない部分がその人にあるのだと思って人に接すると、相手のどんな行動に対しても、まず「どんなことがあってこの人の今の行動につながったのだろう」と思えるようになります。
例えば、自分からぶつかってきて舌打ちをしてきた人がいたとして、ああ分かり合えない人種だなと思うのでなく、この人は今ものすごく余裕のない状況に置かれているのかもしれない、家族の誰かが危篤で病院に向かっているところかもしれない、体調がひどく悪いのかもしれないし、小さいころからそのように育てられてきたのかもしれない(そうだとしたら割と生きていてしんどい場面が多そうだな)、とか…。
ここでの想像力というのは現実から離れたものを指すのではなく、極めて現実的なものだと思います。現実に即せば即すほど、自分に見えている部分がどれほど少ないかを知り、断定を避けざるをえなくなったり、態度として謙虚にならざるをえなかったりします。


肝心の活動なのですが、私が取り仕切っているものは、家庭裁判所の協力の下、少年と1時間ほど……の清掃をして、その後1時間ほど話し合いをする、という感じのものです。
今年度の活動日は……です。
その他に活動はたくさんありますし、活動頻度も自由、知識も経験もない方でも全く問題ないので、興味を少しでもお持ちになったらぜひぜひお声掛けください。


正直人手が足りず自分もあまり余裕がなく割と本気でやめてしまいたいとか思うのですが、活動自体は好きなのでやめられません…はあ。
このような状況ですが、無理やり仕事を押し付けたりは絶対にしません。興味を持ってくれた方で、少し雑用をしてもこの活動が存続するメリットの方が強いと思う人がいれば、運営のお手伝いしてくれたらとてもとても助かります。
いなかったらいなかったで、それは致し方ないことだと思うので、存続しなければいいのだと思います。人のための団体から、団体のための人になってはいけません。

私の気持ちが持つ限り、なるべく多くの人に、なるべく低いハードルで、更生に関わる機会をもってもらえたらと思っています。どんな動機でもいいし、一回限りの気持ちでいいので、ぜひぜひ声をかけてください。


ながながながくなってしまいました…最後まで読んでくれた奇特な方がもしいたら、飴をあげたい気分です。うわあん