最近

最近、というかもう何年か前から、気持ちが毎日ジェットコースターのようで自分でもよくわからない。「まだ生きていける気がする」と思った1時間後に、何があったわけでもないのに次の朝が迎えられる気がしなくなる。1年後に自分が生きているかどうかもずっとわからない。いつからか、未来の話をされると言葉に詰まるようになってしまった。「私は、」のあとに、何も続かなくなってしまった、喉が閉まって目に涙がたまる。ぼんやりとでも浮かんでいた先のことが、本当に見えなくなってしまった。何年か後には、大根にでもなって面白い形で土から生えてきたりしているかもしれない。

この世界には、さまざまなうつくしいことも酷いこともあることを知っている。意味づけなんてできないような次元に曝されていることも知っている。他人や自分以外のあらゆるものが、私が意識していないときにも、私の見ていないときにも存在していること、その驚きとかどうしようもなさとかとてつもなさとか。そうしたことを感じるから、私はそのわけのわからない存在は尊いと思っているし、理由などなくその尊厳は守られるべきなのだと、守らなければいけないのだと信じている。何かの尊厳が害われていることを感じると、本当にたまらない気持ちになる。そういうことは多い。

「そういうことは多い」から、生きていることが苦痛なのか?
私はどうしてこんなに生きづらいんだろう。それが知りたい。何がつらいの、何が苦しくて切ないの、それが知りたい。

手に負えないものが多すぎると思う、ほとんどのものが手に負えない。生まれてきた時点で、私は何も承知していないし何も同意していないのに生まれていて、もう既に自分の存在自体手に負えない。これは私を生んだ親がどうこうとか、そんな話じゃない、親にも手に負えない、誰も手に負えない。
なんで私は個体なんだと思う。個体というあり方に耐えられない。私が個体である限り実現できないさまざまなこと。自我のない、ひとしく降り注ぐものになれたらと思う。バタイユやメルロポンティや西田幾多郎も他の多くの思想家も、個体ではない存在のあり方について話している(と私は解釈している)。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」私も本当にそれが不思議だ。

私の言う「手に負えない」は、「世の中の様々な事柄に対して問題解決のすべがない」という話ではない。社会のあらゆる問題に対して、無力さを感じることはそりゃ多いけど、ものすごく多いけど、決して「何も打つ手がない」わけではないと思う。多くのもっとも有効な手段は、地道で地味でささやかで我慢強さと粘り強さが必要なものだけど、そうしたすべが私たちには残されていると思う。私は生きている限りそうしたことを実践していこうと思っている。

私の感じる手に負えなさは、そうしたことよりはるかに根本的なもので、本当にどうしようもないもの、何もすべが残されていないものだと思う。そうしたことは受け入れるほかなく、腹を括るしかないのかもしれない。腹が括れないから生きているのがつらいのか?

個体として生まれてきてしまったことは、もう腹を括るしかないけど、それをやめることはできる。でもどうせそのときがいつかくるなら、今じゃなくても、わざわざ今自分でしなくてもいいんじゃないか。そう思うけど、でもたまらなく生きにくいんだもんなあ

私は自分が大切だと思ったことを大切にしながら生きたい。そうできないなら死んだ方がましだと思う。というより、死んだほうがその大切なものを大切にすることができる気がしている。あーだからなのかな

世の中で起きているすべてのことに関わることは決してできない。私の目に入るもののうち、焦点を結び、意味づけられ、そして手を伸ばせるものなんてあまりに少なく、でも、それさえ手に負えない。なんというか、誠実に向き合いたいと願うには、世界はあまりにも“ありすぎる”と思う。
日常生活を送るために、ほとんどのものに対する感受性を麻痺させている。そうしなければ生きていけないことを知っている。でも、そんな風に生きていくことに耐えられないときがある。
私は考えるべきことを考えて、向き合うべきものと向き合って生きているだろうか? 

 

この世界は本当は特に意味はなく、そういう意味で常に根本的な理不尽に曝されているわけだけど、私は別にそのことに対して絶望感はなく、むしろ楽しんでいると思う。私は自分が理不尽な状況に置かれるとめちゃくちゃウケてしまうので、毎日よく笑っている。 

マチュアの発明家になって、家にでかいボロボロのパラボラアンテナつけたいな